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[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)

<あの良寛さん、好みの菓子は>
 越後の歴史上の人物として、このところ「良寛」(1758~1831年)に関心を持って文献・資料などを紐解いている。その人物像については様々な見方があり、奥深さには尽きせぬ魅力がある。北前船の寄港地である出雲崎の町名主の家に生まれ、若くしてその役を継いだが突然仏門に入り、12年間の岡山・玉島の円通寺での禅修行の後、国内各地を巡り郷里に戻ったのはさらに6年の後だったという。それからは、寺の住職となることもなく托鉢をしながら、自由人として仏の道を歩んだ人であるが、子供から大人まで多くの人々に好かれ、漢詩や和歌そして書の達人として名を馳せた人物であった。それらについては、おいおいと触れてゆくことにして、ここでは人間味のある食に関する逸話に触れてみたい。
 「欲がなければ、あらゆることに満ち足りた思いになるが、欲を出すと何事もうまく行かず苦しい思いをする。わずかな青菜でも飢えをしのげるし、ボロの着衣でも身につければ寒さをしのげる。・・・(『草堂集』136)」と全体としては生涯をつつましく暮らしたが、良寛の書いた手紙として知られる260通あまりのうち、2/3が贈り物への礼状であり、その中の圧倒的な部分が食べ物への礼状という。酒、餅、百合根、米、砂糖、白麦、豆、野菜、海産物、果物、菓子など、多品目にわたっている。菓子では金平糖、粟飴、羊羹などが挙げられる。([1]
 なかでも病の折に、 「白雪羔(こう)」 という滋養に富む菓子を所望する手紙は興味深い。その文面には「白雪羔(こう)少々御恵たまはり度候 餘の菓子は無用 沙門良寛 十一月五日」とあり、死を翌年に 控えた文政13年(1830)11月 に与板の酒屋に宛てた手紙とされている([2])。ではその菓子とはどのようなものであったのか。
 江戸時代の製法書によると、白雪羔は米粉、もち米の粉、砂糖に蓮の実の粉末などを混ぜ、押し固めて蒸したもので、口に入れれば雪のように溶けることから、その名がついたとされる。『七人目白雪羔で育て上げ』(柳多留) の川柳があるように、江戸時代には 砕いて湯にとかしたものが母乳の代用 にされた。しかし、白雪羔は次第に姿を消してしまったという。([3]
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_12194124.jpg 現在、白雪羔を復元されているのが出雲崎の「大黒屋」(写真1)とのことであるが、残念ながら伺う機会を逃している。しかし、この流れをひくといわれる菓子が長岡近辺にある。日本三大銘菓の一つといわれる長岡・大和屋の「越乃雪」(写真2)、長岡・山岡屋の「むつの花」、三条・松坂屋、吉文字屋の「庭砂羔」などである。[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_12264348.jpg幸い、私は「越乃雪」と「むつの花」を日頃味わえる環境にあったので、その淡雪のような見栄え、口の中でホッコリととろける食感、上質で品のある甘みについてある程度は想像できたのは幸せである。まさに質の高い米の産地、北前船が運んだ阿波の国の和三盆が織りなす、中越地方ならではの名産品なのであろう。

<長岡の和菓子匠「山岡屋」を愛でた17年>
◆初めて村松のお店を訪れたときは
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_12415886.jpg 私が山岡屋と出会ったのは長岡の大学に赴任した平成7年の5月頃であったと思われる。週末に市街地のわが家から車を駆って長岡郊外の中山間部、蓬平温泉奥の高龍神社を初めて訪ねた時、里山の裾野を走ると、清流に沿った歴史を感じさせる「村松」の屋並みが現れ、そこで「山岡屋」の看板を目にしたのである。和菓子匠であることを確かめそのまま高龍神社に向かったが、帰路に寄ってみようと期待に心を弾ませたのを覚えている。
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_12441222.jpg 帰りに風格のある店の入口をくぐると、目に入ってきたのは「むつの花」の大きな木製の看板写真3)であった。菓子ケースには、最中、栗饅頭写真4左)、金鍔、羊羹などの代表的な和菓子に加えて、この店の家伝の「むつの花」写真5,6)、そして創意工夫された松の実、花篝、くるみ写真4右)、松笠などが並ぶ。応対に出られたのは、大奥様で、それ以来今日まで山岡屋の菓子作りへの思いや家族ぐるみでの切り盛り、そして近隣とのつながりに支えられた歴史などのお話しを、少しずつ伺ってゆくことになったのである。
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13313261.jpg[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13315848.jpg店の一角には小さな茶席が設けられ、客にはまず一服して世間話しをしてもらう中で、ゆったりと菓子を選んでもらおうという「もてなし」の場なのであろう。店の中には菓子職人でもある若主人(息子さん)がこだわって集められた信楽焼の器(うつわ)類も置かれ、銘茶とともに販売されていた。和菓子を心から味わうための素材が用意されているのである。

◆菓子作りへのこだわりとそのルーツは
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13403752.jpg その菓子作りのこだわりは、例えば、和三盆は上品な口溶けの阿波和三盆糖、くるみは濃厚な味わいの和胡桃、葛は吉野の本葛といった具合である。そして、それらを生かし切る丁寧な菓子作りの技は、現在の4代目に至るまで、老舗の菓匠における修行により裏付けられたものという。4代目の修行先は「加賀八幡 起上もなか」などで知られる金沢の「浦田甘陽堂」という。そして初代は山崎留七(トメシチで菓子屋とは全く縁がない酒屋で庄屋の末子であったが新天地を求めて上野の岡埜栄泉に奉公(写真7は岡埜栄泉関係者との記念撮影から;右下の2人のうち左側が留七)したという。[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13442211.jpg岡埜栄泉は明治6年に「岡野ちよ」により操業され、上野公園のお山の下で上野駅の開業もあって大いに栄え、現在に至っているという。この“山下岡埜”での修業(写真8は当時のはっぴ)が、現在の山岡屋出発の素地となったのである。

◆村松という風土に支えられて
 山崎留七がその姓の“山”と岡埜栄泉の“岡”を頂いて“山岡屋”を現在の長岡市村松で創業したのは明治28年9月15日であったという。村松地域は歴史的にも重要な地域であったようで、その中心を成していたのが真言宗の円融寺とみられが、鎌倉幕府が滅びた後、南北朝時代の1334年には阿弥陀如来像が納められたと伝えられ、その背後の山には村松城が築城されている。室町時代には古志長尾家に治められ経済的・文化的にも重要な役割を演じてきたようで、1507年には「(上杉氏の後継者争いに長尾氏が絡んだ)永正の乱(本ブログNo.22参照)が始まり、村松の円融寺が焼失」([4])という記述もある。
 明治になって山岡屋の創業時には、この辺りには十数軒の商家があったという。山岡屋が和菓子匠として発展してゆけた背景には、この円融寺の法事などの用達があったのであろう。また、経済的にも村松地域は石材の産出・加工業が活況を呈していたという。私見であるが、東京で身に着けた優れた和菓子匠の技と越後の良質の米食材、和三盆の流通の歴史が融合、そして留七の創業魂が土台を作り、村松地域の文化的風土と産業基盤が、山岡屋の商いを受け止めてくれる器を提供してくれたのではないかと推察される。因みに隣の長岡藩の中核の和菓子匠としては、紅谷重正、大和屋、丸屋があったというが、山岡屋にはこれらとは一線を画して、孤高の銘菓を生み出す素地と環境があったものと思われる。なお、この村松には山岡屋のすぐ裏に、明治から昭和に活躍した作家で夏目漱石の長女を妻とした松岡譲の実家の本覚寺(真宗)もある。そんな山岡屋も平成6年9月には、初代からの繋がりを大切にしてきた「上野岡埜栄泉堂」(山下岡埜)の社長を迎えて創業百周年を祝ったという。私が初めて伺った年の前年のことである。

◆中越大震災を乗り越えて
 私がお付き合いを始めてからの、山岡屋にとっての最大の試練は平成16年10月23日の中越大震災(M6.8)による店舗と工房そしてお住まいの建物の損壊であった。震源地は、ここからは十数㎞南になるが、典型的な中山間地の直下型地震であり、山古志村などこの地域の山間部では地形が変わるほどの山崩れが多発したのである。当時、TVのニュース映像でご記憶の方も多いと思うが、脱線した新幹線車両の復旧作業中に大きな余震に襲われたが、作業員が事なきを得た現場が、村松地域のすぐ隣であった。
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_1351571.jpg 山岡屋のご一家は、避難所生活の後、仮設住宅暮らし(写真9)を余儀なくされた。このとき不幸中の幸いだったのは、村松の店舗以外に長岡の市街地南部の宮内というところに出店を計画されていて、既に準備が進んでいたことであった。震災でゼロからの再建をするのではなく、準備を急ぐことで、地震発生から2ヶ月後には臨時の工房も併設して宮内店をオープンさせたのである。私にとっても本当に嬉しい再開であった。その後、2年後には村松の店舗と工房そして住まいを兼ねた建物も再建され、「山岡屋」の新たなステージが始まったのである。

<長岡を離れても山岡屋への思いは>
 平成25年6月、長岡を離れて1年ぶりに車で長岡に行くことになったので、村松の店舗を訪ねた。店の前の太田川の清流に架かる木製の橋(写真10)が一層の風情を感じさせる。店内(写真11[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13534464.jpg[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_13542334.jpgに入ると大奥様が笑顔で迎えてくださり、和みの一服をいただきながら、あらためて山岡屋の創業以来の歴史を伺った。途中からは若主人で菓子職人の息子さんも会話に加わっていただき、本当に楽しいひと時を過ごすことができた。
 あらためて、創業が「銘茶、陶磁器の販売を兼ねた菓子製舗であったことの商標」写真12)、[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_1418262.jpg[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_1410446.jpg初代が受けた「“むつの花”への御即位奉祝記念帝国製菓競進會褒章之證」写真13)などを見せていただいた。その際、山岡屋の初代のルーツに関わる品々が宮内店の方に置いてあるとのお話をされていたので、[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_14135936.jpgその翌日、宮内店に伺い、こちらでは焦点の品々を拝見するとともに、若奥様からもいろいろなお話を伺うことができた。その品々の一部が前述の「初代の山崎留七の写真」「山下岡埜の法被」であるが、初代の「粋な風呂敷」写真14)、4代目の創作菓子「くるみ」への「全国菓子大博覧会での名誉総裁賞(技術部門)褒賞状」写真15[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_1421342.jpgも見せていただくとともに、震災からの店舗再開としての宮内店の立ち上げに当たっては、ご夫婦で京都の和菓子匠をあちこちと訪ね勉強されたことも伺った。そうして、出来上がった店舗内の佇まいが写真16,17,18であり、ここでも“もてなしの気持ち”が込められているのがわかるのである。
[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_14222235.jpg
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[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_14293010.jpg 長岡から鎌倉への帰途に就くとき、再び、村松のお店に伺い、大奥様手作りの「ちまき」写真19)をいただいたが、米の旨みと食感が絶妙な餅と上質の甘味に笹の香りが調和した逸品で、市販されていないのが残念に思えたのであった。[No.33]いま越後を想う(4)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その1)_b0250968_1431166.jpg
ちなみに近年は長岡駅ビルの中に売り場を設けておられ、手軽に入手できるのはありがたい。
 山岡屋5代目が育って、どのような菓子作りをされていくことになるのか楽しみである。


<2013/ 7/25>

「いま越後を想う(3)― 匠のつくる食を楽しむ ―(その2)」へつづきます。

【参考資料】
[1] 松本市壽:ヘタな人生論より良寛の生きかた、河出文庫9-1、2008.
[2] 「いとおかし」:http://www.m-mizoguti.com/ito/ito.html
[3] 「とらやHP」:http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_018.html
[4] 「長岡市の歴史年表」 http://www.najirane.com/nagaoka/histry.htm

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by humlet_kn | 2013-07-25 12:45 | 出あう | Comments(0)

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