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[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ

[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_21134527.jpg 今年(2018年)の正月の映画鑑賞に選んだのは“Destiny 鎌倉ものがたり”(山崎貴監督)ポスター)。近くのシネマコンプレックスに行くと、学校が冬休み中ということもあって、かなりの入りであった。原作の西岸良平の連作コミック「鎌倉ものがたり」は数十年の長寿作品であるものの読んだことがなかったが、鎌倉に在住する私たち夫婦にとっては、シネマという形でどのように描かれているのか関心をもったのである。
 鎌倉の風土や文化、人々の気風などのとらえ方にも様々な感想を持ったが、ここでは“妖怪の住む街”として描かれている点に着目して、そのvirtualな妖気イメージから鎌倉のrealな妖気イメージをひも解いてみたい。
 なお、適宜、鎌倉の地に関する風土・歴史的記述は、「かまくら子ども風土記」[1]からの引用を活用することとしたい。

Ⅰ.日常のくらしに融けこんだ妖怪たち
 Destinyでは、主人公夫妻(堺雅人と高畑充希が演ずる一色正和・亜紀子)の登場する最初の場面で、画面を横切るのが、愛らしい“かっぱ”である。人間に近しい存在としての妖怪を登場させているのであろう。その後、多くの谷戸や緑地の存在する丘陵地の和洋折衷の古めかしい洋館での新婚生活が描かれ、妖怪が営むマーケットに妻の亜紀子が足を踏み込むことで、本格的な妖怪との共生が始まってゆく。この鎌倉生活のvirtualな妖気イメージを踏まえて、私の体験している鎌倉のくらしにおけるrealな妖気イメージを探ってみよう。

◆かっぱ達の天国?◆
 頼朝の墓の東方の鎌倉宮の少し手前にある荏柄天神社(http://www.tenjinsha.com/#)は、鎌倉幕府が開かれる以前の1104年に創建されたとされる古い天神社であり、当時植えられたとされる、現存の鎌倉最古の公孫樹の神木がある。また、その本殿は、鶴岡八幡宮の若宮から移されたとされ、鎌倉時代の建物として貴重な歴史遺産となっている。
[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_2124405.jpg[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_212513100.jpg その境内にあるのが、「かっぱ筆塚」である(写真1,2)。漫画家、清水崑[2][3]が鎌倉に住み、1971年に長年愛用した絵筆を奉納して、建立されたという[4]
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 清水崑は、1912年長崎で生まれ、地元の商業高校を卒業後1931年に上京、漫画家として活躍し始め、1953年~1958年の週刊朝日連載の「かっぱ天国」(写真3)は大ブームをもたらした。その間、「黄桜酒造」かっぱのCMも人気となる一方、朝日新聞夕刊で、政治家や著名人と対談し、多くの似顔絵を担当した。1974年、62年の生涯を閉じた。

<かまくら子ども風土記>によれば
「社殿の左脇には、かっぱの漫画で知られた清水崑の絵で、川端康成筆の『かっぱ筆塚』の石碑が立てられています。その後の小高い所に絵筆の形をしたブロンズの『絵筆塚』の搭が立っています。そこには横山隆一の呼びかけで描かれた現代漫画家の思い思いのカッパの絵が刻まれています。」

 清水崑に描かれた「かっぱ」は家族や隣人社会を形成していて、私達のくらしにとけ込む形で、市民や読者に受けいれられ、親しまれていたように思う。いわば人々の仲間としての“愛すべき妖怪”であったのであろう。
<補遺> 文学との係わりでは、芥川龍之介の「河童」(1927年)が、まず思い出される。河童の世界に迷い込んだ主人公が、河童社会での体験を通して、人間社会の痛烈な風刺を展開した。その影響を強く受けた火野葦平も小説「河童」(1949年)をはじめとした多くの河童に関わる作品を残しており、その「河童」の装丁・挿絵を清水崑が担当したという。因みに、芥川龍之介も1918年(26歳)には1年程、鎌倉に住んでいる。

◆妖怪たちの行列?◆
 坂ノ下の御霊神社の例祭は9月18日に行われる。この神社は、江ノ電が境内を通り抜けるため、その踏切を渡らなければ、正面からの参拝ができないため、江ノ電と線路脇の紫陽花の一緒になった画像がしばしば紹介される。この神社は地元の住民からは「権五郎さま」と呼ばれて親しまれているが、その鎌倉権五郎景正(政)(マイ・ブログNO.22参照)の命日に行われてきたのが例祭であり、その中でのクライマックスが「面掛(めんかけ)行列」である。

<かまくら子ども風土記>によれば
「拝殿右手に青竹を四方に建てて注連(しめ)縄を張り、五穀豊穣を祈る『鎌倉神楽』とか『湯立神楽』ともいう『湯花神楽』が行われます。・・・神輿は、神社前の江ノ電の踏切を渡り、表参道を出て、極楽寺坂・坂ノ下大通り・海岸・長谷観音の近くまで行って戻ります。/神輿の前を、県の無形文化財に指定されている「面掛(めんかけ)行列が練り歩きます。赤だすきにねじり鉢巻き、笛や太鼓の囃子の後に、白いのぼり旗の竹を担ぐ白装束、わら草履ばきの少年、天狗の面をかぶった猿田彦、獅子頭を担ぐ人が続きます。次に、十の面をつけた人が並びます。爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男・福禄寿・おかめ・女の順です。最後の2人は女装ですが、全て男の人がやっています。/前の8人はそろいの頭巾に赤い袴姿で、着物の上に赤や金の美しい模様が入った袖なしの羽織を着ています。おかめは、おなかを大きくふくらませた姿で、両手でかかえながら歩くと、産婆役のその後ろの(天冠と呼ばれる)女が、扇であおいだり、おかめの腹をなでたりと、おどけたかっこうをして見物人を笑わせます。・・・/ここに伝わる面は、昔から行われてきた芸能である『伎楽』の影響を伝えるもので、『明和五年(1769年)』の年号があります。鶴ヶ岡八幡宮の祭りで『放生会(ほうじょうえ)』を行ったときに、舞楽面の行列があったものをまねて、坂ノ下村民がつくらせたものといわれます。/・・・御霊神社の面掛行列がいつから始められたかはわかりませんが、面ができた年から考えて、200年以上前には行われていたことは明らかです。・・・地域の豊年と豊漁を祈願し、紙の徳を受けて子孫繁栄を願う祭りだと考えられます。」(写真4~7

[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_21515832.jpg[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_21521926.jpg[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_21524547.jpg[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_21534592.jpg

 この行列の発祥の伝説としては、(http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/goryo-menkake.htm
「源頼朝は非人頭の娘を可愛がり、身ごもらせてしまいます。そして、娘のもとにおしのびで通う頼朝の警護を非人たちが引き受けました。そのような経緯から、年に一度だけの無礼講が許されますが、身分の低い非人であるため、大衆に顔を見せることができず面をつけたのだと伝えられています。これが面掛行列の起こりだともいわれ、九人目に孕み女(はらみおんな:阿亀)がいるのはそのためだとも伝えられています。」

 御霊神社の「妖怪」の正体は、「歴史上は非人たち」であったのかもしれませんが、庶民の出産の幸を願う祭礼として伝えられてきたことは、心温まる思いで接することができる。

◆福来・財福を福神に祈る◆
 シネマDestinyでは、舞踊家の田中泯演じる“貧乏神”が登場し、強欲な資産家の富をねらってその家に取り付き、貧乏へと引きずり込む“爺さん神”の果たす役割が、印象深い。この貧乏神は、一色夫妻の家に入り込むが、貧乏神にとっては見込み違いで、シネマのストーリーの終焉部で決定的な役割を果たす“品”を残して、去ってゆくのである。貧乏転じて○○の神を素晴らしい情感で演じ切っている。

(a) かまくら七福神めぐり
 古来、日本全国で七福神という神々が民衆に受けいれられ、崇められてきた。この鎌倉の地でも、代表的な寺社と結ばれた七福神があって、寺社への参拝を兼ねて、一日で巡ることができます。これらの神々は福をもたらす妖怪と見ることもできるかもしれません。特に正月には、江の島の弁財天を加えてこの七福人めぐりをされる方が多いようだ。

<かまくら子ども風土記>によれば、
[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_2212664.jpg 七福神は、開運や財福を招く「大黒天」(長谷寺)、農業・漁業や商売の神とされる「恵比寿神」(本覚寺)、健康や長寿の神とされる「寿老人」(妙隆寺)、幸福や財産・寿命を授ける「福禄寿」(御霊神社)(写真8)、[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_2231887.jpg財福を招き願いごとをかなえてくれる「弁財天」(鶴岡八幡宮)、健康や財産を授け勝運の神様である「毘沙門天」(宝戒寺)、生きる力や広くておおらかな心と知恵を授けるといわれる「布袋尊(浄智寺)」の七神で、この七神をまつる寺社を巡拝するのが七福神めぐりです。」

 私自身は、意識して七福神めぐりをしたことはありませんが、訪れることの多い、長谷寺の「さわり大黒」写真9)は馴染みやすく、印象深い御像です。

(b) 巳(み)の縁日の銭洗い
[No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_4535728.jpg 最も世俗的な福は財福でしょう。鎌倉駅から北西へ徒歩20分ほどの佐助から葛原ヶ丘への上り坂の途中にある「銭洗い弁天」は鎌倉時代から人気のスポットでした。私も、小学5年生の頃から鎌倉に住んできましたが、最初の居所からかなり近い場所にあり、遊びのテリトリー内にありました。当時も、その境内の洞内の井水に笊に入れた札束に水掛けをする参拝客をよく見かけたものでした。(写真10

<かまくら子ども風土記>によれば
 「・・・次のような話が伝えられています。/平安時代の終わりのころから世の中がたいへん乱れ、その上ききんが続いて、人々の苦しみはひどく、目もあてられないありさまでした。/源頼朝は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳の年の1185年巳の月の巳の日の夜中、夢に一人の老人が現れ、『お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。 [No.100] 鎌倉そぞろ歩き(17) ― シネマ“Destiny”の妖気のリアリティ_b0250968_459158.jpgここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である』 といって姿を消しました。・・・/頼朝は洞くつを掘らせ、神社を建てて、夢に現れた宇賀福神をおまつりしました。そして、毎日その水を運んで供えたので、天下はしだいに治まり、・・・人々は安楽な日々を送るようになったということです。/その後、1257年、北条時頼は、頼朝の心を継いで、この福の神を信仰し、『辛巳(かのとみ)なる金』の日を選んで人々に参拝させました。そして、時頼は『天下の通宝である銭をこの水で洗い清めればきれいな福銭となり、その銭は必ず一粒百倍の力を現して、一家は栄え、子孫は長く安らかになるであろう。』といって、自ら持っていた銭を洗って祈りました。・・・/弁天のご神体の宇賀福神は水の神で、体は蛇、頭は老人の顔をしています。」(写真11

 この蛇の身体と老人の頭部をもつご神体は、いわば福を招く、鎌倉に根付いた財福神の化身と言えるではないだろうか。
                                       (2018/02/5 記)
===================== [No.101に続く] =====================

by humlet_kn | 2018-02-05 05:13 | 出あう | Comments(0)

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