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[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる

タウトゆかりの高崎に向かう
 晩秋の冷たい小雨が降る平日(2015/11/26)に、妻と二人で上州路に、ドイツ人建築家のブルーノ・タウト(1880~1937)が日本滞在中(1933/5~1936/10)の主たる居所とした高崎市にある庵を訪ねた。久々の長距離ドライブとなり、早朝に鎌倉を車で発って、湘南の茅ヶ崎から圏央道を北上し、鶴ヶ島から関越自動車道に入り、高崎市郊外の少林山達磨寺に着いたのは正午少し前であった。車は高崎ICを降り高崎の市街地を抜けて、さらに碓井川に沿って西方に5,6分走ったところで“達磨寺”の駐車場を見つけそこに置いた。季節外れとみえ、また平日でもあり、かなり広い駐車場に他車はなかった。
 タウトは来日後1年余を経て、ここに秘書兼伴侶のエリカとともに2年3カ月の間(1934/8~1936/10)住み、群馬県工業試験場高崎分場の井上房一郎の工房で、工芸作品の創作・指導活動を行ったのである。その居所とした小さな和風の木造家屋は「洗心亭」と呼ばれ、かなりゆったりとした伽藍配置がなされた境内の一角にあった。

少林山達磨寺の境内を歩く
[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_15552913.jpg 車を降りて、ゆるやかな坂道を上ること数分で境内に入る。折しも全山が緑を背景としつつ紅、橙、黄、黄緑の混じり合った木々を配して、その間の彼処に伽藍、石畳、階段を垣間見せている写真1)。見事な自然と建造物の織りなす造形美である。
 少林山達磨寺の縁起[1]によれば、一了居士という行者が1680年に、いにしえの大洪水の際に碓井川のほとりの観音堂に村人たちが納めていた古木から達磨大師の座像を彫り上げ祀ったのがはじまりとされており、その後1697年に領主・酒井雅楽頭忠挙(さかいうたのかみただたか)公が水戸から天湫(しゅう)を招き少林山達磨寺として開創したとのこと。そして二百有余年前の天明の大飢饉(1782~1788年)の後に、本寺ゆかりの座禅だるまを農民に張り子で作らせその副業とさせたのがはじまりで、今日の縁起だるまの隆盛につながったとのことである。
[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1625014.jpg 境内に入ると、左手に対外的活動・管理業務などの拠点としての「瑞雲閣」(1975年建立)がどっしりと構えており、その向こうに端正な大講堂(1927年建立)がみえる。瑞雲閣の手前から右手に石段が伸びており(写真2)、私達も錦の空間をのぼっていった。そこに現れたのが三百年前の姿を留める萱葺屋根と弁柄色の壁を持つ「観音堂」である。決して派手ではないが雅を感じさせる彩色が美しい(写真3[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1662337.jpg)。お堂の前には、タウトがこのお堂付近を散策する写真も置かれていた。
 さらに左手の石段を少し登ると、本堂である「霊符堂」(1911年建立)に至った。あたかも神社のような建物の構えで、左右の回廊には多くの縁起だるまが納められていた(写真4)。お堂の前はかなり広い石畳と玉砂利が敷き詰められた空間になっており、[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1671282.jpg眼下には境内の向こうに碓井川が見えるが、残念ながら遠望は利かず、上州、信州の山々は姿を隠していた。
 「霊符堂」前の境内をそのまま進むと同じ平面地に「達磨堂」(1986年開堂)がある。中には全国から集められた様々なダルマが所狭しと並んでおり(写真5[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1694683.jpg、福田赳夫、小渕恵三、中曽根康弘などの群馬出身の総理大臣の奉納したダルマも見られた。

あの洗心亭へ
 タウトをこの地に招聘した井上房一郎は、八幡村の大地主の沼賀博介が農業の普及・改良の指導をしてもらおうと東京農大学長・佐藤寛治博士を招聘するために建てた建物「洗心亭」が、少林山達磨寺境内にあることを知り、住職の廣瀬大蟲にタウトの短期間の滞在を依頼したのである[2]。初めは百日を想定し、1934年8月1日から住み始めたのですが、タウトはこの地をとても気に入り、結果的には、日本を離れるまでの、2年3ヶ月もの長期滞在の居所になったのであった。
[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1612559.jpg 「達磨堂」を下り始めると、木々の間から瓦屋根の小さな家屋が見えてきた(写真6)。タウトと伴侶のエリカが暮らした、6畳の居間と4畳半の茶の間しかないあの洗心亭である。家屋の前には石碑が置かれ「Ich Liebe die Japanische Kultur」(我、日本文化を愛す)という銘とタウトの署名、裏面には井上房一郎とその工房の助手でタウトが最も信頼できる弟子と認めた水原徳言(みはらよしゆき)の署名が刻まれている(写真7[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1616365.jpg
 家屋は傾斜地にあり、その縁側と6畳の居間には前庭から陽光が差し込む造り(写真8)になっている。この日は、残念ながら内部は公開されておらずその細部の様子は分からなかったが、タウトの日記1934年(1934/8/5)[3]の文面と間取りのスケッチによれば、[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1620095.jpg簡素でこじんまりした規模ではあるが、畳の二部屋の他に床の間、玄関、台所、浴室、厠、押入が備わっているという。わずかに窓越しに床の間に石碑の拓本が掛けてあるのが窺がえた。
 今回の洗心亭訪問で最も印象深かったのは、斜面の下方から紅葉の林を通してその庵を望む景観であった(写真9、10)。今回と同季節の1934/11/19のタウトの日記には
「洗心亭の楓樹は、少林山一帯の雄大な風景に鏤(ちりば)められた宝石さながらだ。しかしよく眺めると一本の枝にも、燃える様な紅から濃い緑までさまざまな色調と濃淡が見られる、片側が美しい赤で別の側が緑色をした林檎そっくりだ。私達は遍身を眼にしてこの美観を飽きずに眺めている」
と著されており、[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1623163.jpg[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_16232193.jpgその趣を重ね合わせながら、楓の樹枝に纏われた紅葉と斜面に散り敷かれた紅葉の錦を愛でて、80年前のこの地でのタウトとエリカの暮らしぶりに思いを馳せたのである。

  上州に タウトの名残り 訪ね来て
       紅葉が染める 庵に寄り添う
   
  達磨寺 散り敷く紅葉 踏み分けて
       タウトの径 のぼる嬉しさ

高崎ぐらしに至るまでに・・・
 田中辰明[4]によれば、タウト自身は、1909年から1920年代半ばにかけて、ドイツにおける表現主義建築家として華々しい活躍をし、その後、1920年代後半には住宅供給会社GEHAGなどと労働者のための大規模な集合住宅地の建設に携わるほか、独立住宅の設計にも積極的に取組んだ。1932年にソ連政府の招きに応じて「大モスクワ建設」への協力を要請されモスクワで仕事をしたが、考え方の違いから、仕事を放棄して1933年初めにはベルリンに戻ってきた。しかし、ナチスの台頭により身辺に危機感を察知したタウトは、急遽ドイツを脱出し、パリを経て日本滞在を果たしたのである。
 タウトは来日後、彼を招聘した日本インターナショナル建築会会長の上野伊三郎のはからいで京都、大阪、奈良を巡り、その後東京に移動し、東京の街や日光、鎌倉などを訪ねている(タウトの日記1933年[5])。この間、歴史的建物や当時の近代的建物を視察するとともに、いくつかの講演会を行いながら、能、歌舞伎、日本舞踊、大相撲などを鑑賞している。衝撃的な「桂離宮」との出会いは、5月4日のことであり、敦賀到着の翌日であった。東京では、その後のタウトの滞在を支援することになった建築家の久米権九郎と蔵田周忠に出合っている。6月に入ると再び京都へ、8月は避暑の意味もあってか葉山の久米宅に招かれ逗留しており、9月初めには日本橋三越で開催されていた商工省工藝指導所の展覧会にも出向き、その欧米のスケッチ的模倣による『輸出趣味』を批判している。その後、東京に戻り9月下旬には再び京都へ活動の中心を移し、日本の伝統文化への理解を深めており、特に「伊勢神宮」との出会いは、文化論的・建築論的にも、桂離宮とならんで、タウトに多大な影響を与えたのである。
 その間、仙台にあった商工省の工芸指導所からの嘱託としての招聘の話しが進み、久米、蔵田の両氏の奨めもあって、11月から3カ月程度の任期で着任することとなった(庄子晃子[6])。実際には4カ月弱(1933/11/10~1934/3/7)にわたり在職し、国の機関としての役割を念頭に置いた工芸品の開発と指導に当たり、組織との様々な軋轢の中で、工芸指導所のあり方に関する基盤の構築とその後の産業工芸界を担うことになった剣持勇、豊口克平らの工芸デザイナー人材を育成したのである。
 もちろん、来日以来の、建築家としての情熱は日本における建築文化の探究や都市計画、建物設計への思いにつき動かされていたに違いない。支援者であった上野、久米、蔵田らもそうした思いに応えるべく、タウトの日本の大学での職の獲得や建築計画への参画を画策していたが、わが国の当時の建築家コミュニティの排他性や政治的流れの中での社会主義的活動への抵抗もあって、実現困難な状況だったのである。実際、1933年10月に「奈良生駒山の小都市計画」、1935年3月には「東京・等々力のジードルング(集合住宅)計画」が持ち上がったがいずれも頓挫しており、タウトは落胆を隠せなかったという[7]

洗心亭での「建築家の休日」に成し遂げたこと
 そんな状況の中で、久米、蔵田は高崎の工芸&実業家でパリ遊学から帰って工芸運動の革新に取り組みはじめた井上房一郎に白羽の矢を立てタウトの引受けを依頼したのである。こうして実現したのが、群馬県工業試験場高崎分場の井上工房のデザイン担当の役であった。1934年8月1日に上野を発って、この洗心亭に居を移し、公私の仕事に打ち込むとともに、地方における田舎暮らしを享受し、自らが後に振り返り「建築家の休日」と称した日本での主要活動の拠点としたのであった。
[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_16362177.jpg 井上工房が立ち上がり、工芸品制作でタウトの片腕となった水原徳言を得たものの、そのデザイン活動の経済的・社会的基盤は弱く、井上は制作された工芸作品を世に知らしめ、幾ばくかの活動資金を得るための店舗「ミラテス」を、1933年7月に軽井沢に、つづいてタウトの協力の下1935年2月に東京・銀座に開店した。写真11はミラテスが1階に店舗を構えた銀座の瀧山ビルの外観写真(水原徳元による)である。タウトによる「竹の電気スタンド」(写真12は再制作品[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_1637201.jpg、「木製伸縮自在本立て」など(私自身は、これらの工芸作品のいくつかについて、1914年3月に東京・京橋で開催されたLIXCILギャラリーにおける「ブルーノ・タウトの工芸―日本に残したデザイン」展で目にする機会を得ている)が評判になったものの、実際には高価なものであり利益を上げるほどの販売にはつながらなかったという。
 しかし、一定の富裕層・知識層にはタウトの作品が目に留まることになり、後に在日中の唯一の建築デザイン作品となった旧日向別邸地下部分本ブログNo.16の訪問記参照)の発注者である日向利兵衛もミラテスで電気スタンドを購入したことが、タウトに建築設計を依頼するきっかけとなったという。また、つい先日、2020年の東京五輪のメインスタジアムのデザイン公募で採択が決まったA案の設計者、建築家の隈研吾がタウトについて述懐している文章[8]で、「子供の頃、父親がミラテスで入手し大切にしていた木製円形の小箱を見せてくれたが、そこにはタウト/井上と記してあった」という。そのことが後に建築家となって井上房一郎との仕事の関わりや日向別邸の不思議な空間を意識するきっかけとなったのである。
 井上は、建築家としてのタウトに思いを致し、1933年12月に入って「少林山建築工芸学校」の設立の話を出してタウトに草案作りを依頼したが、正月にはその中止を伝えている。タウトの落胆は大きかったという。
 洗心亭では、その工芸活動に加えて、日本の古典文学への接触で始まっている。1934年8月~9月にかけて、「徒然草」、「方丈記」、「奥の細道」、「源氏物語」を読み、8月28日の日記では
「此処こそ私が去りがてに思った最初の土地である、私達はできることならこの静閑と簡素な生活、また私達を取りまく諸人の親切を味わいつつ秋の更けるまで滞在したいと希っている。洗心亭に居を定めてから、私は初めて十四世紀に吉田兼好が『徒然草』に書きとどめている心にくい感想を理解できるようになった」
と記している。また鴨長明の隠遁生活の居所の方丈(一丈四方:4畳半相当)に比べて「洗心亭の方が少し広い」と述べているのである。
 タウトはこの洗心亭における自然と人情に満ちた“風土”の中で安寧の精神と深い思惟の機会を得て、彼の波乱に満ちた半生に磨き上げられた建築や文化に関する智慧を著述に残す仕事に精力的に取り組むことができたとも言えよう。この間に執筆された著作
  「日本文化史観」「日本の家屋と人」「建築芸術論」
  「建築とは何か」(「建築に関する省察」「すぐれた建築はどうしてできるか」を合本)
などは彼の集大成ともいえる論述である。

住職とお会いしタウトを偲ぶ
 洗心亭を後にし、瑞雲閣に戻ると、幸いなことに少林山の現住職・廣瀬正史氏にお会いすることができた。この日の当山訪問の動機をお話しすると、快く対応をいただき、タウト展示室に案内いただいた。祖父で当時の廣瀬大蟲住職のタウトとの逸話や、タウトの残した知のDNAを伝えるために2000年に発足した「ブルーノタウトの会」[9]の活動についてお話しを伺うとともに、タウトゆかりの貴重な品々や写真、書面などを見せていただいた。その中には高崎で制作されたいくつかの椅子、[No.78] 人間生活と文化(7)― 高崎にB・タウトの旧居を訪ねる_b0250968_16442487.jpgそしてタウトの伴侶エリカが彼の死後、一周忌に再びこの地を訪れたときに携えてきたデスマスク写真13)も所蔵されていた。

 黄檗宗禅寺において観音の慈悲と達磨大師の「面壁九年」の心に触れて、タウトはこの少林山でドイツでの「動」と対比するように「静」の悟りを開くことができたのではないだろうか。

【参考資料】
[1] 少林山の縁起、黄檗宗 少林山達磨寺HP、http://www.daruma.or.jp/about/index.html
[2] 少林山とブルーノタウト、黄檗宗 少林山達磨寺HP、
                      http://www.daruma.or.jp/about/index.html
[3] ブルーノ・タウト著、篠田英雄譯、「日本 タウトの日記 1934年」、岩波書店、1975.
[4] 田中辰明、「ブルーノ・タウト」、中公新書2169、中央公論新社、2012.
[5] ブルーノ・タウト、篠田英雄譯、「日本 タウトの日記 1933年」、岩波書店、1975.
[6] 庄子晃子、「工芸作品に見る創造―偉大な日本の伝統との対話」、「ブルーノ・タウトの工芸―日本に残した
  デザイン」展用冊子、LIXCILギャラリー、pp.71-76、2013.
[7] 水原徳言、「建築家の休日」、「ブルーノ・タウトの工芸―日本に残したデザイン」展用冊子、
  LIXCILギャラリー、pp.29-48、2013.
[8] 隈研吾、「ブルーノ・タウトの小箱」、「ブルーノ・タウトの工芸―日本に残したデザイン」展用冊子、
  LIXCILギャラリー、pp.53-54、2013.
[9] ブルーノタウトの会HP、http://www.serere.jp/taut/new.html
                               (2016/01/01記)
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by humlet_kn | 2016-01-01 15:44 | 出あう | Comments(0)

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