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[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる

Ⅰ.ドナルド・キーン・センター柏崎を訪ねて
[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる_b0250968_12123017.jpg この10月のある日、1年半前に長岡の地を離れてはじめて、柏崎に向かう列車から窓外を眺めていた。愁色の始まった山間を抜けると遠くにあの米山が望まれた。柏崎に降り立つと、駅前は以前と大きな変化はなく、というよりは少し閑散とした空間に感じられた。右手側の海に続く街路を、歩くこと20分ほどでなんとか「ドナルド・キーン・センター柏崎」[1]の建物[写真1]を見つけることができた。

 中へ入ると真新しいこぎれいなカウンター。まず印象深かったのは「鬼怒鳴門」という表記であった。古代から現代に至る日本文学の系譜への様々なメッセージを記されてきているが、その「学び」の始まりは、ニューヨークでの1940年18歳のときの「源氏物語」との出会いであったという。その後、日米の太平洋戦争時には、米軍に情報将校として従軍して対日工作の一環の中で多くの日本兵の書き残した「従軍日記」を読み解く業務を行った。戦後は1953年に憧れの京都留学を果たし、出会ったのが終生の友、永井道雄であった。そのことが古の日本文学のみならず、現代に至るまでの日本文学への深耕と日本文化全般への考究へとつながったと述べられている。特に日本人作家としてかかわりの深かったのが三島由紀夫であったとの印象を受けた。

 この柏崎の市民との出会いは、中越沖地震(2007年)後の落ち込んだ彼の地で、キーン氏の提案による古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記」の復活上演(2009年)の活動であったという。そしてこのキーン・センターの開館とキーン氏自身の日本人への帰化が、東日本大震災という”大災害”によって宿命づけられていたように、私の頭の中では重なってしまうのである。
 いくつかの展示を見て、2階の一角に再現された、彼のニューヨークのハドソン川沿いにあった書斎の復元室[写真2~4]に佇んだ。多くの書籍とさまざまな和の美術品[写真5~8]に囲まれたソファーに身を沈めて、そこで何を考え、何を発信されてきたのだろうか。
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Ⅱ.日本文学へのメッセージを読んで
 キーン・センター訪問後、鎌倉市立図書館でいくつかの彼の著作に目を通している。彼の半生の諸作品を収めた“ドナルド・キーン著作集”[2]写真9[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる_b0250968_12194081.jpgが2011年から順次出版されているが、基本的には原文は英語で書かれており、邦人の訳に成るものである。
 初めに手にしたのは、第二巻の「百代の過客」に収められたいくつかの日記文学へのメッセージである。鎌倉に住むものとしては鎌倉時代後期の阿仏尼による「十六夜日記」に興味を覚えたことが切っ掛けであった。平安から鎌倉、室町へ、そして徳川に至る80にも及ぶ日記文学が取り上げられている。そもそも単なる「日記」ではなく「日記文学」というジャンルが日本文学の大きな特質であることに着目しているのである。
 私にとって印象深いメッセージを受け取ったものをいくつか挙げると、
 平安期では「土佐日記(M)※」<土佐から都へ帰任する役人の(一行に紛れ込んだ女の)旅日記>、「蜻蛉日記」<第二の妻としての憂愁・悲しみの情>、 「和泉式部日記」<敦道親王の式部への熱愛と死別への対応の複雑な情>、「紫式部日記」<式部の宮廷生活における環境と衣服・装い・食べ物の美への敏感な意識と貴族たちの宮廷生活における醜さも>。 「更級日記」<「源氏物語」にあこがれた文学少女の上総から都に出てからの物語の世界を重ねた宮仕えの様>。
 鎌倉期では、「建礼門院右京太夫集」<中宮徳子が尼僧となった建礼門院に仕えた女人の平氏の崩壊に伴う明暗の心情>、 「明月記(M)」<定家の和歌世界での抗争をめぐって>、 「海道記(M)」<世を捨てることの憐れと宿命>、「うたたね」<18-19歳の阿仏が初めての愛人との情交を経て「源氏物語」のロマン世界へのあこがれと、愛人との別れがもたらした尼寺や遠方の養父宅でのくらしの中での苦悩と絶望、憐れの心情が美しく描かれている>。
  われよりは久しかるべき跡なれど しのばぬ人はあはれとも見じ
「十六夜日記」<阿仏尼が、夫、為家の死に伴って持ち上がった先妻の息子・為氏と後妻である自分の息子・為相の間の相続問題に関する幕府への提訴のために鎌倉に下向し、暮らす様を綴ったもの>[鎌倉での住まいのあった月影の谷戸の辺り:写真10[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる_b0250968_12203644.jpg、である。
 室町期を飛ばして徳川期に入ると圧巻は芭蕉の「おくのほそ道(M)」である。「紀行文学に付き物のさまざまな要素を取り込んでいるだけでなく、作者が自らについて、またその時代の人間の生活について語っている」としている。
  行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
  夏草や 兵どもが 夢の跡
   ※上記の作品宮で(M)は作者が男性であることを示す

 このように、キーンが日記文学の中で見出し、没頭していったものは、私人としての旅や宮廷生活や、政争や訴訟という体験を通して、作者自らの「心情」を、なんらかの後世の人々に書き残しておきたいとして、綴られてきたメッセージであり、西欧や中国などにおいては見つけることができないとしているのである。日本兵が戦場で日々の日記をつけることが推奨されていたという事実は、情報戦略上は米軍では考えられないことであるが、それが「日本人の心情を基盤とする精神文化」においては意味のあることであると理解されているのである。

Ⅲ.ハーン、タウト、そしてキーンが日本の生活文化に見たもの
 (a) ラフカディオ・ハーン[1850-1904]<日本滞在:40~54歳(明治中期)>
 ハーンについては本ブログNo.35の夏の長谷観音詣での項で述べているが、1890年に横浜に上陸し、直ちに鎌倉、江の島を訪れている。その後、松江、熊本、神戸、東京と居を移している。現在の鳥取大、東大、早大で英語教育に携わるとともに、 「怪談」 [3] 写真11[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる_b0250968_12211972.jpgなどの物語や日本文化論を執筆し海外に発信している。
 ハーンは「日本人の霊的なものへの畏敬と情念」について特に関心を抱いていたように思われる。亡くなった人の魂の現世との繋がりや生まれかわりについては、仏教の霊魂や輪廻の考え方が日本人の心を支配し、事物や自然に宿る霊については、神道に根ざしているように思われる。「怪談」の中の物語では、前者は「耳なし芳一のはなし」や「お貞のはなし」などに、後者は「雪女」や「乳母桜」などにそうした日本人の民族意識が埋め込まれているのであろうか。
 ― 「お貞のはなし」より ―
「長尾様、・・・わたしはもう死ぬものと諦めております。・・・わたくしどもまたいつかお会いできる気がして、・・・」
「浄土へ参れば別離の苦しみはもうありますまい」
「いえ、いえ」とお貞はおだやかに答えた、
「西方浄土のお話しをいたしたのではございません。わたくしどもこの世でまたお会いするよう運命づけられている、と信じているのでございます・・・」
お貞はやさしい夢見るような声で続けた、
「・・・ただ、本当にあなた様がお望みならばですよ。ただ、そうなるためには、もう一度女の子に生まれて一人前の女になるまで育たなければなりませぬ。・・・」
「・・・あなた様がおいやでない限り、わたしはあなた様のもとへ帰って参ります。・・・」
お貞の言葉はそこで途切れた。両の眼は閉じた。お貞は死んだ。

  (b) ブルーノ・タウト[1880~1938]<日本滞在:53~56歳(昭和前期)>
 タウトについては、本ブログでも三度(No.10,16,34)にわたって取り上げてきた。ドイツ人の建築家で、ナチスの台頭による、自由な創作活動への圧迫から逃れ、1933年に家族を残し母国を離れ、来日したのであった。それまでの彼の建築家としての名声は非常に高いものがあり、「色彩宣言」を唱えて、マルデブルク市の市役所やオットーリヒター通りの集合住宅、ベルリン市のブリッツ、ファンケルベルク、オンケルトムズヒュッテ、カール・レギーンなどの集合住宅団地など、壁、扉、窓などに斬新な色彩を施し、世界遺産にも登録されるような作品を残していた[4]
 敦賀港に到着した翌日(1933/5/4)に訪ねたのが「桂離宮」[5]であり、大きな衝撃と感動がもたらされた。写真12[No.45] 人間生活と文化(3):D・キーンの日本文学へのメッセージに触れる_b0250968_12215920.jpgはタウトの残した桂離宮訪問時のスケッチであり、江戸時代初期の造営であるが、単純さの中に平安期から受け継がれた気品と雅、自然と建物の一体性を感じ取っている。その後の3年半における日本での創作は、旧日向別邸を除いて、工芸作品に限られていたが、その著作と仙台、高崎の工芸指導所におけるデザイナーの指導を通して、「和の再認識」「和洋の融合の何たるか」についてのメッセージが着実に伝えられたのではないかと思われる。
 歴史を踏まえた分析により、日本建築における「神道と皇室・公家」そして「仏教と将軍」という二つの流れを見出し、前者が桂離宮をもたらし、後者が東照宮をもたらしたとしている。建築美の本質としての桂離宮の簡潔さと空間構成の意味性に感銘を受けているのである。その芸術性の評価について書「芸術は感性である もっとも単純ななかに最高の芸術がある」を残している。因みに、来日の翌年の高崎での落ち着いた生活の中で、8月から9月にかけて一気に「徒然草」「方丈記」「奥の細道」そして「源氏物語」を読んでいることは、後述のドナルド・キーンの文学を通した日本文化の理解と重なって興味深い。

 (c) ドナルド・キーン [1922~]<日本留学:31歳、日本帰化:90歳(昭和後期~平成期)>
 著作「古典の愉しみ:第1章 日本の美学」 (ドナルド・キーン著作集第1巻)[2]では、文学を通しての日本人の美意識・嗜好の特質を論じている。その中で挙げられているキーワードは
 暗示 (suggestion)、不均整 (irregularity)、簡素 (simplicity)、無常 (perishability)
である。これらを引き出すのに、文学はもちろん、絵画、書、演劇、茶の湯、生け花、陶器、庭園、家屋、食など、多岐にわたる伝統の系譜が論じられている。
 文学の歴史の中で、和の美意識を端的に述べている書として「徒然草」を取り上げている。鎌倉時代末期の作とされるが、「京都の公家文化」と「鎌倉の武家文化」のせめぎあいの中で、書かれたものであることが、キーンにも必然的にそうした位置づけを成さしめたものと考えられるのである。キーン自身、別の著述で、現在につながる日本文化の源を築いたのは、室町期前期の京都における武家文化の牽引者である足利義政[6]としていることも、理解できるところである。

 キーンが暗示の美の原理として引用している徒然草の百三十七段をから、
 「・・・ 万の事も、始終こそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢い見るをばいふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契をかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、淺茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとはいはめ。 ・・・」

 キーンによる本著の中でのタウトやハーンへの言及も興味深い。
 ◆今日でこそ桂離宮のすっきりした直線は日本建築のエッセンスだとされているが、それを言い出したのは1930年代に本を出版した西欧の人(訳註:ブルーノ・タウト)であり・・・。
 ◆ラフカディオ・ハーンは日本の風景や習慣について書き、多くの人々に読まれる作家だが、1896年の『心』の中で、
  「一般に我々は耐久性を考えてものを造るが、日本では“うつろう”ことが当然であると考えられている。日本では永持ちするためにという意識で作られたものが日常的につかわれることは少ない。・・・旅館では客には新しい箸が提供される。窓や壁としても使われる軽い障子は、一年に二度張り替えられる。・・・こういうことは、日本人の一時的なものへの満足を示す日常生活でのほんの一例である」と述べている。

[参考資料]
[1] ドナルド・キーン・センター柏崎 HP: http://www.donaldkeenecenter.jp/.
[2] ドナルド・キーン著作集(第1巻~第9巻)、新潮社、2011~2013年.
[3] ラフカディオ ハーン (著)、平井 呈一 (翻訳):怪談―不思議なことの物語と研究 (岩波文庫) 、岩波書店、1965年.
[4] 田中辰明:ブルーノ・タウト、中公新書、2012.
[5] 篠田英雄:タウト全集第1巻 桂離宮、育生社弘道閣、1942年.
[6] ドナルド・キーン(著)、角地幸男(訳):足利義政 日本美の発見、中央公論、2003.

                              <2013年12月12日>
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by humlet_kn | 2013-12-12 22:00 | 出あう | Comments(0)

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